「多様性」と「定型化」の違いは?

 運動経験が豊富であるということは、様々な条件変化に対応できる(多様性がある)ことを意味します。一方、スポーツ動作の実施には一定で安定した運動経過の発揮(定型化している)が求められます。これは一見「矛盾」しているように思われます。実は私たちの身体は「機械のような正確さ」では動いてはいないようで、1930年代にロシアの著名な生理学者・ベルンシュタインは、上手くいっている周期的な動作(例えば連続した釘打ち動作)も正確には反復されていないことを指摘しています。これは「冗長度」という概念で表現され、ほぼ同じ軌道なのだが微妙にずれながら正確に釘を打っていることを示します。
 私たちの身体は上肢や下肢、頭部や体幹といった多くの節(セグメント)から構成されているので「機械のように正確に」動かすことは困難なので「同じような軌道」を描くような「冗長度(ある程度のいい加減さ)」を持っています。1%ずれたからといって破綻するようなシステムは現実的ではなく、5%とか10%のずれを想定してその状況でも運動が実現できるように反復練習をして対応します。かつて日本インカレにも出場した走高跳選手が「助走-踏切準備-踏切-空中動作-クリア」のそれぞれが100%上手くいくことはあり得ないので95%程度の冗長度で対応して「最高の跳躍を実現する」ように練習をしています・・とコメントしていました。
 この「冗長度」を支えている神経システムは「大脳基底核」と「小脳」と考えられています。小脳は運動経過(例えばテイクバック~フォアワードスイング~インパクト~フォロースルー)に「補正」をかける働きがあります。「ストレートと判断」してバットスイングを開始したが「あれ、フォークボールだ!」とスイングのタイミングを変えインパクトを補正するのは小脳の働きです。そして「どの補正が必要か?」を選んでいるのが大脳基底核のようです。大脳基底核の疾病であるパーキンソン病は、この補正をするディレクターが機能を失いそれぞれのパターンが「勝手に動きだす」ので手足の振顫に代表される様々な症状が現れます。NHK:ヒューマニエンス:”天才”(2021放映)では、将棋のプロ棋士は瞬間的に提示される「詰め将棋」の判断に80%程度の正確さで対応しており、その際プロ棋士ではこの大脳基底核が働いていることが示されました。田中寅彦棋士は「アマチュアの方は算数を解いているようだが私たちは音楽を演奏している芸術家のような感覚だ」との大変印象的なコメントを残しています。じつは大脳基底核は意識に上ることはないものの情動や感情にも関与している部位なのです。


 

「運動経験」が足りない・・?

 持久系種目のトレーニングでは、ほぼ同一の動きを長時間反復しているので他の運動経験が不足して、そのことが動きの「冗長度」の獲得を阻害しているのではないか?・・と考えられています。しかし、実際の持久系のトレーニングでは実に多彩な方法が取り入れられています。
 基本的には4つのタイプがあり、①低強度で長時間行うディスタンス・トレーニング、②中強度で短い休息を挟んで反復するインターバル・トレーニング、③レースよりも高い強度で十分な休息を挟んで繰り返すペース・トレーニング、④高強度短時間運動を繰り返すアネロビックインターバル・トレーニング(最近注目されている「高強度短時間インターバル・トレーニング」)、と分類されています。基本的には3分の2が①のディスタンストレーニングで、残り3分の1を種目の条件に応じて配分します。また1920年代、フィンランド発祥の長距離王・ヌルミ選手が行っていた山野の起伏を利用する「ファルトレック・トレーニング」は様々な条件下でのランニングを実施する優れたトレーニングメソッドとして実施されています。
 最近注目の東京国際大学駅伝チームでは、練習前に体幹トレーニングや厚底シューズに対応するスキルを獲得するためのドリルやプライオメトリクス・ジャンプなどを取り入れていることが紹介されていました(NHK:ランスマ、2022年放映)。また「クロス・トレーニング」といって、ランニングと自転車や水泳のトレーニングを組み合わせる方法や協応性を改善する「コーディネーション・トレーニング」の有効性も指摘されています。
 私たちの運動を実現している筋肉は、遅筋系筋線維と2つの速筋系筋線維が動きをつくり出し、筋内のハイパワー(クレアチンリン酸系)・ミドルパワー(解糖系)・ローパワー(有酸素系)システムが課題に応じてエネルギーをつくり出す「3×3システム」として機能しています。ハイパワー系✕TypeⅡb のマトリクスだけに頼ったスキルで運動を継続していては「中枢性抑制」を伴って破綻をきたしますので、適切にマトリクスを切り替えて対応(運動スキル・・例えばピッチ走法への切り替えやチェンジ・オブ・ペースなど)する必要があります。動きをつくり出すシステムは神経系の働きを伴いますので「運動経験の豊富」な持久力トレーニングの実施が求められているのです。


 

私って ”器用じゃないの・・!?”

 かつて私の研究室の学生さんが「先生、女子の長距離水泳選手ってドンくさいんですよ・・!?」と嘆いていました。どうやら器用に動くことが不得意なようなのです。これはランニングなどの長距離種目でも同じような傾向があるように考えられています(当然例外もあり)。
 これは持久系競技の選手では運動に関わる筋の「遅筋系筋線維」が多いためすばやく動くことが不得意なのでは・・と考えられてきました。確かに遅筋系筋線維は「神経支配比」という1本の運動神経が支配する筋線維数が多く微妙な調整は苦手です(速筋系筋線維はこの神経支配比が少なく微妙に調整することが可能です)。
 1960年頃から研究されている筋生理学のデータでは、脚筋の速筋:遅筋の比率は、短距離選手では75%が速筋系であるのに対してマラソンランナーでは80%が遅筋系であることが知られています。ですから遅筋系筋線維の多い選手ではすばやく器用に動く速筋系筋線維が少ないので持久系競技種目を選択すると考えられてきました。
 しかし、運動にかかわる全身の筋肉は数多く、速筋系筋線維と遅筋系筋線維の比率も筋によって異なりかつ個人差もあります。また100%遅筋系線維という筋肉はありません(例外的に「ヒラメ筋」という足首の関節だけを動かして体重を支え続けている筋だけは90%ほどが遅筋線維で個人差も少ない)。
 また近年、ランニングでは発揮されたエネルギーを疾走速度に変換する「ランニング効率」の重要性が指摘され、ケニアの優れたランナーではランニング効率が数%高いこと(NHKスペシャル取材班、42.195Kmの科学、2013年、角川書店)と筋線維組成にかかわる遺伝子ACTN3の持久性競技に有利とされるTT型が少ないことも指摘されています(善家賢、金メダル遺伝子を探せ、2010年、角川書店)。つまり長距離ランニングの効率を維持するためには「器用な速筋群が必要」ということとなります。
 東大の野崎大地先生は、股関節と膝関節の動きに関与する筋群がそれぞれの固有の運動方向だけではなく協同して運動の「至適方向」を決定していることを指摘しています(野崎大地、骨格筋の冗長性:体育の科学 第64巻11号、2014年)。つまり幾つかの筋群を共同させて動かすことでその時点で最適な動きを生み出しているようで、この際2種類ある速筋系筋線維のなかで大きな張力を短時間発揮するTypeⅡb(いわゆる ”スーパー速筋” )が至適運動方向決定に重要な役割を果たしているようなのです。質量のある下肢部を運動開始にあたって瞬間的に適切な運動方向にガイドすることはいわゆる「初動負荷理論(ワールドウィング・小山裕史先生)」にも通ずるものです。
 どの筋にも速筋線維と遅筋線維は存在しているわけですので短距離種目であれ長距離種目であれ「いかにうまく動かすのか」という「運動スキル」の発揮は重要です。実は持久系の種目ではトレーニングの大半を「一定の動き」で反復していますのでこの「冗長度」のトレーニング時間が相対的に少なくなり「私器用じゃないの・・!?」という嘆きに繋がっているようなのです。

腸内細菌がパフォーマンスを改善?

 2019年・ハーバード大学の研究グループが、ボストンマラソン完走者のパフォーマンスと腸内細菌との関係を分析し、「ベイオネラ菌」という腸内細菌が運動によって生成された乳酸を「プロピオン酸」に変換(エサとして処理)しそれが肝臓に運ばれて有酸素エネルギーとして再利用される可能性を指摘し、マウスを使った実験では有酸素能力が13%改善されるとのデータも示されました。2020年・慶應大学の福田真嗣先生は、腸内細菌が作る短鎖脂肪酸が持久力を向上させ、タイムの良い選手ほどその腸内細菌が多い可能性を報告しています。また運動習慣により腸内細菌叢のバランスが変化すること、多様性の高い腸内細菌叢を保有しアミノ酸合成や炭水化物代謝の経路や短鎖脂肪酸の濃度が高いことを指摘します(福田真嗣編、腸内細菌叢、羊土社、2019年)。
 有名な「乳酸シャトル」は筋肉内で速筋線維で生成した乳酸を、そのまま混在しているミトコンドリアの豊富な遅筋線維がエネルギーに変換するものですが、これは乳酸が腸に送られ、腸内細菌が短鎖脂肪酸に変換して肝臓に戻すという少しスパンの長いプロセスとなります。
 特定の腸内細菌がアレルギーの発症や免疫細胞の暴走を抑制することは以前から知られていました(NHK:新人体_腸が免疫のカギだった・2018年放映)が、パフォーマンスとの関係も最近多く指摘されてきています。これは、遺伝子解析のコラムでも触れた「次世代シークエンサー」の登場が大きなインパクトとなっています。従来の腸内細菌の研究方法は便のサンプルを培養して分析していたのですが、今は便から直接DNAを取り出します(時間をおいてサンプリングをすると情報が失われたり変性したりする)。
 順天堂大学病院では重篤な「潰瘍性大腸炎」の治療に、好ましくない腸内細菌叢を抗生物質で除去してから他人からの「便移植」で対応する方法を行っています(順天堂大学・石川大先生)。面白いことに移植対象者は年の離れた親子ではなく兄弟などの親族の方が好結果が得られているとのことです(NHK:ヒューマニエンス_腸内細菌・2022年放映)。
 ただあくまでも大腸炎治療のための医療措置なので、便移植療法でパフォーマンスを改善するようなことはあり得ません。やはりトレーニング方法や食事内容の改善(食物繊維や乳酸菌等の意図的摂取)で対応してゆくこととなります。

遺伝子解析とゲノム編集

 

 21世紀にはいって遺伝子解析の急速な発展が起こり「次世代シークエンサー」といわれる解析手法を用いた全ゲノム解析が進み、それに関わり幾つかの運動機能に関連する遺伝子(遺伝子多型)が特定されてきています。順天堂大学の福典之先生は、筋力・筋パワーや最大酸素摂取量、速筋と遅筋の筋組成に関わる遺伝的要因の関係について56の遺伝子座が検討されていることを指摘しています。速筋線維の構造に関連するACTN3遺伝子多型で有名なRR型・RX型が速筋系筋線維に発現するのに対しXX型と持久的能力との明確な対応はみられないこと、国際級の長距離ランナーではRR型やRX型の頻度が高いこと、血管収縮に関連するACE遺伝子に関してはアジア人とヨーロッパ人では表現型が異なること、有酸素的能力に関与すると考えられる細胞ミトコンドリアDNA多型(全ゲノムDNAとは異なる)にも持久的能力だけではなく瞬発系の運動能力にも関与する「ハプログループ」が存在しることを指摘しています。これらの遺伝子多型の解析は選手の運動能力の「適性判定」に寄与する可能性があることも論議されています。(福典之、DNAとパフォーマンスの関係、SPORTS SCIENCE MAGAZINE、ベースボール・マガジン社、2015年)
 一方、iPS細胞に代表される遺伝子操作に関わる革命的方法の進展は、研究者からは「ある意味ではヒトをつくるほうが簡単」とのコメントも寄せられています。「ミオスタチン」という筋再生にかかわるホルモンは食用のため「簡単に筋肉の多いの動物(当然食料利用の生産性需要が高い)」をつくり出しており、このミオスタチンの遺伝子操作をすれば「筋力アップ」した「人間」が誕生する可能性は否定できません(というか懸念されています)。
 スポーツ工学のシェフィールド・ハラム大学のヘイク先生は、身体能力の増強に関して世界アンチドーピング機構(WADA)が治療に関わるTUE申請で、治療に限って幹細胞治療を認めているのですが、そのドーピング利用の可能性に懸念を示しています。マウスの実験では遺伝子改変による遅筋系筋線維の増加や肝臓や腎臓の脂肪組織における代謝を亢進させるPEPCK-C酵素を改変した「スーパーマウス」の事例も報告され、貧血治療に用いられる「レポキシジン」使用の可能性も懸念しています。(S.ヘイク:藤原多伽夫訳、スポーツはどこへ行く:スポーツを変えたテクノロジー、白揚社、2020年)
 2018年中国での双子の胎児へのゲノム編集を行いエイズウィルスへの耐性を持つ遺伝子操作を実施したことが倫理面を含め大きな話題となりました。また「優性教育」を標榜する中国政府のスタンスから受精卵へのゲノム編集実施(いわゆる“デザイナー・ベイビー”)を加速するのではないかとの懸念も持たれています。難病治療のための遺伝子操作の可能性と“人間改造”の可能性がどこまで許容されるかはまさに“未来への分岐点”なのかもしれません。(堀内健太、ゲノムテクノロジーの光と影:テクノロジーは神か悪魔か 2030 未来への分岐点Ⅱ、NHK出版、2021年)

治療も制限されるのですか?

 ドーピング禁止薬物の多くは病気の治療のために開発されたもので、人類の英知ともいえる治療薬がパラリンピックまで含めてスポーツの価値に影を落とすということは何とも皮肉なことです
 アスリートも生身の人間ですから病気も怪我もしますので治療を受けなくてはいけません
 ところが治療に使われる薬は禁止薬物リストにあるものが多いので対応する医師は「TUE(Therapeutic Use Exemption)申請」をする必要があります
 参加する大会の30日前までにこの申請がない(もしくは申請が却下される)と禁止薬物・禁止方法違反としてドーピング規則違反となります(医師のためのTUE申請ガイドブック、(公財)日本アンチドーピング機構、2020年)
 その基準は、①使用しないと健康に重要な影響が出る、②他に代えられる治療方法がない、③健康を取り戻す以上に競技力を向上させない、④ドーピングの副作用に対する治療ではない、の4つで、特に③と④は難しい選択が求められます
 この意味で、トップクラスのチームのドクターの仕事は、治療やコンディションの維持とともにドーピング検査への対策でもあるといえます
 現在五輪や世界選手権に出場するレベルの選手は、世界アンチドーピング機構(WADA)や各国のアンチドーピング機構による大会ごとの検査や競技会以外の抜き打ち検査(Out of Competition)を受ける義務(選手本人の同意が前提)が課せられています
 また選手個人のデータベース化(ADAMSシステム)も進んでいますので、例えば血液検査で酸素を運ぶ血中ヘモグロビン値が「正常範囲」を逸脱していないかなどもチェックされています
 しかしドーピングを隠ぺいする方法も年々巧妙化しています
 ロシアでは、尿検査での「A検体」「B検体」を検査室内の「ネズミの穴」を使ってすり替えていたことが発覚し、競技団体やオリンピック委員会から独立しているはずのロシアアンチドーピング機構は現在資格停止中です
 かつて東独では、男性ホルモンであるテストステロンと代謝産物のデヒドロテストステロンとの正常な比率を維持するために筋肉増強剤摂取とともにデヒドロテストステロンを注射するという方法を用いていました
 オーストラリアでは犯罪組織がドーピングを利用して選手との関係を深め脅迫をして競技結果を覆す八百長(スポーツ賭博の利権)を行っていた報道もありました(NHK:見えないドーピング、2014年放映)
 また、今回の北京五輪での混乱は、国威発揚に利用しようとする政府のメダリストやスタッフへの過度の報償制度とともに巧妙な組織ぐるみのドーピング(選手・コーチ・医師・栄養士を含めたシステム)を誘導しているとの疑惑も問題となっています
 一方、トップアスリートだけではなく、私たちの周りにも「サプリメントと称する妖怪」が跋扈していて、高校生などが指導者から情報を得て摂取している実態(高校長距離選手での「鉄材注射」に日本陸連は禁止措置を出しています)もあり、スポーツの価値に影を落としているとともに選手の心とからだの健康を脅かしていることも事実なのです

ドーピングは何故いけないのですか?

 北京冬季五輪・女子フィギュアスケートで、15歳のロシアオリンピック委員会(ROC)・ワリエワ選手のドーピング問題が話題となっています
 禁止薬物であるトリメタジジン(心臓病の薬)に加えて、禁止薬物ではない「ハイポクセン(2017年米アンチドーピング機構がリストアップを主張)」や「L-カルニチン」も検出されており疑惑が深まっています
 またロシアなの・・というコメントが多いのは、ロシアの場合は選手やコーチ「個人」の使用ではなく競技団体やアアンチドーピング機構(RADA)自体も関与する「国家ぐるみのドーピング」が行われている疑惑があるからです(旧東ドイツの国家ぐるみのドーピングである「国家計画14.25」は研究機関とアンチドーピング機構をも含むトータルシステムでした:NHK「汚れた金メダル」2016年放映)
 実はロシアの国家ぐるみのドーピング疑惑は、2010年のバンクーバー冬季五輪で不振を極めたロシア選手団(冬季五輪はロシアの看板種目)に対してプーチン大統領が「怒りの檄」をとばしたことで本格化したとの噂もあり、ドーピングによる競技力向上は「最も経費の掛からない強化方法」なのです
 ただワリエワ選手はだれが見ても「とびぬけた能力がある」ように思われドーピングなどは必要がないように思います、だからこそ逆説的に「組織的ドーピング(誰彼構わず適応する)」が疑われているのかもしれません
 ではドーピングはなぜいけないのでしょうか?
 「使用禁止薬物使用」や「規制違反」が根拠としてあげられるのですが、では何故禁止や規制があるのかということとなります
 旧東ドイツでの筋力増強剤などの過度な使用は、重篤な後遺症や女性の男性への転換など健康上の重大な被害を引き起こしました(全国的な救済組織が活動している)
 「健康被害」は本当に深刻な問題で、統計的に計上されていない死亡例は相当数に登ると指摘されています
 かつて、現在も女子400mの世界記録(1985年)保持者であるマリタ・コッホ選手が「普通の身体に戻すトレーニング」をやらざるを得なかったとする映像が放映されました(NHK:東独のスポーツ、1987年放映)
 また「スポーツの価値」として考えれば、ドーピングによって樹立された記録や栄光はあくまでも「偽物」であり選手本人の自己肯定感や人生観自体を崩壊させてしまうもので、スポーツの公正性やフェアプレイ精神を根本から覆すものにほかなりません
 一方、選手強化システムとして考えれば、経済的な問題から十分なトレーニング環境のサポートが得られない国の選手やチームがあるのも事実で、ドーピング以外の潤沢な競技サポートを受けることができているスポーツ大国の選手やチームとの「不平等感」「不公正感」は依然として残ります
 スポーツの成果を高めるためには「トレーニング」「食事」「休養」の組み合わせによる「スポーツライフ・マネジメント」の重要性が指摘されています(筑波大学名誉教授・鈴木正成先生)
 実はドーピングはこのプロセスに「一つの間違い」として侵入してくるもので、ビタミン剤などのサプリメント摂取との境界は不透明で、唯一「禁止薬物リスト」「規制違反」が根拠となり、現在では禁止薬物リストにないものでも「効果」を認識して使用するとドーピングと認定されます(続く)

「無意識のうちに対応して・・」は可能なのですか?

 トップクラスのテニス選手の試合を見ていると高速でラリーを続けていながらも何らかの「仕掛け」をしてポイントを取っているように見えます。練習では何種類かのハードで正確なラリーを延々と続けられるのですから、どこかでそれを崩すことがなければゲームは動きません。明確なのはネットインなどの「イレギュラーショット」ですが、これは適切な打点を判断してロビングや短いショットで返したりする「つなぎのショット」で対応しているようです。
 通常のラリーはフォアハンドもバックハンドも「ストレート」「ロングクロス」「ショートクロス」と「フォア逆クロス」を含めてほぼ7通りくらいの選択肢があるように思います。しかし対人状況下でゲームは進行しているのですから、相手のポジショニングと相手のショットに応じて瞬時に適切なストロークを「選択」しているようで、相手を追い込んで何本目かに「エースショット」でポイントを奪います。
 この際、「どのコースにどのショットを打つか」という「プランニング」には大脳基底核と前頭連合野が関与しており、フォアハンドのショートクロス動作を選択する「プログラミング」には動作を発現する大脳皮質運動野が、相手のショットに応じてショートクロスを補正するには小脳外側部がかかわっており、ショートクロスを打ち始めるタイミングの決定にも大脳基底核が関与していると考えられています。
 つまり前頭連合野・運動野・小脳・大脳基底核が連携して働いているようで、ナイスショットが決まった時には大脳基底核の近傍の大脳辺縁系の記憶に関わる海馬と情動に関わる扁桃体という部位も働いていて、ドーパミン作動性の「褒賞系」システムも連動します(まさに ”褒めてやらねば人は動かじ” )。
 このようにショットが成功している際には言語系は背景に隠れているのですが、ミスが続くと「あれ?」という定位=探求反射(おや-何だ反射)が発生して言語的修正が必要となります(当然現行動作系は中止する)。そして修正が成功すると再び言語系は背景に退きます。「無意識のうちに対応している」のは感覚系内での処理が可能な範囲のようなのです(シューティングゲームでしゃべりながら動作をしていては間に合わないように・・)。
 ところが状況が予想外に急変した時にはもう少し速い対応があるようです。ネットプレーに出たときに相手のショットが予想外に強かった時に「あっ、アウトする」とグリップを緩めたボレーで対応するようなケースです(本当に調節しているかどうかはわかりませんが)。これは、膝蓋腱反射などの「脊髄反射」よりももう少し長くて「意識的調整」よりは短い「長ループ反射(M2)」が背景にあるようで、感覚器のから信号が脊髄を上行して感覚野・運動野経由で下行して筋に戻ってくるようで、システムのリセット効果ではないかともいわれています(松波、1986)。
 人類の進化を考えても、私たちが現在のような豊かな言語系を獲得したのは「つい最近の出来事」なので、身体運動の実現は通常は「視覚情報」や「筋感覚情報」や「平衡感覚情報」などを手掛かりに「感覚依存性運動(運動前野が関与する)」で「無意識のうちに対応して」いるようなのです。

「巧みさ」を決めるものは?

 ロシアの生理学者・ベルンシュタインの「デクステリティ 巧みさとその発達」(工藤和俊訳、金子書房、2003年)は、1940年代に執筆されたものの旧ソ連内での「パブロフ理論」に従わない「機械論」として批判され(ユダヤ人であることも関連していた?)、1991年に至って初めて出版された名著です。特に「運動構築の水準」という概念は身体運動制御の自由度に関わる理論であるとともに、運動障害に対する理論的知見を示したものとして障がい者教育にかかわる人たちからは高く評価されてきました(ワイズマン:茂木俊彦訳、知恵遅れの子どもの運動機能と脳、ミネルヴァ出版、1978年)。一方1967年には「The coordination and regulation of movement」という著書が英訳・出版され、これはヨーロッパの運動の制御に関わる研究者の間では現在も極めて高く評価されています。
 ベルンシュタインは、進化の歴史(系統発生史)から見て大脳基底核の「淡蒼球」など運動制御上の脳の旧い部分から「脳の摩天楼」のように大脳皮質に至るまでA~Dの水準とその関与を例示しています。例えていえば、緊張のレベルAでは走姿勢の保持、筋関節のレベルBでは走動作、空間のレベルCでは陸上トラック上を走ること、行為のレベルDでは400mでベストタイムで走ること・・と解釈できます。つまりそれぞれの水準が系統発生的な起源を持ちそれが再構築されて「巧みさ(デクステリティ)」を実現しているという理論です。
 岐阜大学名誉教授の松波謙一先生は、熟練した運動における運動前野の働きが、動作補正に関わる小脳外側部との結合が強いことに加えて大脳基底核の歯状核や尾状核、被殻との連絡も強いことを指摘し、大脳-基底核-間脳・脳幹-脊髄とつながる「キュー(辮髪)」という概念を示唆されています(運動と脳、紀伊国屋書店、1986年)。また、ヒトとクジラの小脳を比較し、ヒトでは手指の運動の関わる小脳外側部が優位であるのに対してクジラでは体幹の運動に関わる小脳中間部外側が大きくなっていることをから進化のプロセスで求められた運動様式に対応して機能発達と再編が生じている可能性を示唆されました。
 このことは系統発生的に古い神経システムであっても系統発生的に新しいシステムと連携して円滑な運動遂行を可能としていることがうかがわれ、「運動構築の水準」は決して機械論的な決定論ではなくヒトの運動の「背景調整どうしの調和を作る段階」で運動スキルの形成を実現しているようなのです。
 「巧みさ」を実現するシステムは、大脳皮質運動野での運動経過を小脳や大脳基底核などがトレーニングの繰り返しの中で再編され、そのなかで緊急事態に対応する大脳基底核の「直感」システムが形成されているようなのです(続く)。


 

「直感」のメカニズムってあるのですか?

 先日NHK:ヒューマニエンス ”天才のひらめき” が放映され、将棋のプロ棋士の「直感」について理化学研究所の田中啓治先生がMRI(核磁気共鳴で活動状況を解析する方法)で分析した結果を紹介し、アマチュアと比較してプロ棋士では「大脳基底核」が働いているとのデータを示されました。同じく出演していたプロ棋士の田中寅彦9段は「アマチュアは ”算数” を解いている感じだが私たちは ”音楽・芸術” をやっている感じで上手くいくと ”楽しい” 」との大変印象的なコメントを残されています。
 ある局面で、プロ棋士が「いくつか浮かぶ打ち手」のうちから直感的に最善手を選ぶ際(1秒間)に働いているようで、アマチュアの方でも「詰将棋」で徹底的にトレーニングすると大脳基底核が働きだすとの田中啓治先生のデータも紹介されました。いくつかの打ち手が大脳皮質で企画されて大脳基底核にも送られ「咄嗟の(的確な?)判断」の際には大脳基底核が働いているようなのです。
 大脳基底核の機能は「ほとんどの回路を抑制して必要な回路のみを脱抑制する」とされていて、障がいを受けるとパーキンソン病やハッチンソン舞踏病が発症します。身体が本人の意志とかかわりなく勝手に震えたり動いたりするもので、ディレクターとしての大脳基底核が機能不全になりそれぞれの部位が勝手気ままに動こうとするようなものとされます。また、円盤投やハンマー投でターン中の絶妙のタイミングで投擲物をリリースすることやバッティングでの「今だ!」という絶妙のタイミングでスイングを開始することにもかかわっているようです。
 大脳基底核はいわば「旧い脳」で、オタマジャクシのようなかたちで、大脳皮質のように通常意識(言語)にのぼってくることははないのです。玉川大学の丹治順先生は、大脳基底核は、大脳皮質から多くの入力を受けていてそのほとんどを「止めて」いて、必要な時にある回路(最善の打ち手も?)のみをリリースしていると指摘します(脳と運動、共立出版、1999)。
 これは私たち人類の進化のプロセスを考えても、危機的状況下でのストレス反応に対応し、非常スイッチの扁桃体が記憶に関わる海馬の受容体にストレスホルモンを送って「適切な記憶」を形成することが知られており、この際大脳基底核は「戦うか逃げるか(Fight or Flight)」の咄嗟の行動選択に重要な役割を果たしているようなのです。
 ひるがえって考えると、スポーツの場面でも「咄嗟の動作選択」が行われているようにも思いますが、ではそのメカニズムは同じなのでしょうか?(続く)