2022年 2月 の投稿一覧

治療も制限されるのですか?

 ドーピング禁止薬物の多くは病気の治療のために開発されたもので、人類の英知ともいえる治療薬がパラリンピックまで含めてスポーツの価値に影を落とすということは何とも皮肉なことです
 アスリートも生身の人間ですから病気も怪我もしますので治療を受けなくてはいけません
 ところが治療に使われる薬は禁止薬物リストにあるものが多いので対応する医師は「TUE(Therapeutic Use Exemption)申請」をする必要があります
 参加する大会の30日前までにこの申請がない(もしくは申請が却下される)と禁止薬物・禁止方法違反としてドーピング規則違反となります(医師のためのTUE申請ガイドブック、(公財)日本アンチドーピング機構、2020年)
 その基準は、①使用しないと健康に重要な影響が出る、②他に代えられる治療方法がない、③健康を取り戻す以上に競技力を向上させない、④ドーピングの副作用に対する治療ではない、の4つで、特に③と④は難しい選択が求められます
 この意味で、トップクラスのチームのドクターの仕事は、治療やコンディションの維持とともにドーピング検査への対策でもあるといえます
 現在五輪や世界選手権に出場するレベルの選手は、世界アンチドーピング機構(WADA)や各国のアンチドーピング機構による大会ごとの検査や競技会以外の抜き打ち検査(Out of Competition)を受ける義務(選手本人の同意が前提)が課せられています
 また選手個人のデータベース化(ADAMSシステム)も進んでいますので、例えば血液検査で酸素を運ぶ血中ヘモグロビン値が「正常範囲」を逸脱していないかなどもチェックされています
 しかしドーピングを隠ぺいする方法も年々巧妙化しています
 ロシアでは、尿検査での「A検体」「B検体」を検査室内の「ネズミの穴」を使ってすり替えていたことが発覚し、競技団体やオリンピック委員会から独立しているはずのロシアアンチドーピング機構は現在資格停止中です
 かつて東独では、男性ホルモンであるテストステロンと代謝産物のデヒドロテストステロンとの正常な比率を維持するために筋肉増強剤摂取とともにデヒドロテストステロンを注射するという方法を用いていました
 オーストラリアでは犯罪組織がドーピングを利用して選手との関係を深め脅迫をして競技結果を覆す八百長(スポーツ賭博の利権)を行っていた報道もありました(NHK:見えないドーピング、2014年放映)
 また、今回の北京五輪での混乱は、国威発揚に利用しようとする政府のメダリストやスタッフへの過度の報償制度とともに巧妙な組織ぐるみのドーピング(選手・コーチ・医師・栄養士を含めたシステム)を誘導しているとの疑惑も問題となっています
 一方、トップアスリートだけではなく、私たちの周りにも「サプリメントと称する妖怪」が跋扈していて、高校生などが指導者から情報を得て摂取している実態(高校長距離選手での「鉄材注射」に日本陸連は禁止措置を出しています)もあり、スポーツの価値に影を落としているとともに選手の心とからだの健康を脅かしていることも事実なのです

ドーピングは何故いけないのですか?

 北京冬季五輪・女子フィギュアスケートで、15歳のロシアオリンピック委員会(ROC)・ワリエワ選手のドーピング問題が話題となっています
 禁止薬物であるトリメタジジン(心臓病の薬)に加えて、禁止薬物ではない「ハイポクセン(2017年米アンチドーピング機構がリストアップを主張)」や「L-カルニチン」も検出されており疑惑が深まっています
 またロシアなの・・というコメントが多いのは、ロシアの場合は選手やコーチ「個人」の使用ではなく競技団体やアアンチドーピング機構(RADA)自体も関与する「国家ぐるみのドーピング」が行われている疑惑があるからです(旧東ドイツの国家ぐるみのドーピングである「国家計画14.25」は研究機関とアンチドーピング機構をも含むトータルシステムでした:NHK「汚れた金メダル」2016年放映)
 実はロシアの国家ぐるみのドーピング疑惑は、2010年のバンクーバー冬季五輪で不振を極めたロシア選手団(冬季五輪はロシアの看板種目)に対してプーチン大統領が「怒りの檄」をとばしたことで本格化したとの噂もあり、ドーピングによる競技力向上は「最も経費の掛からない強化方法」なのです
 ただワリエワ選手はだれが見ても「とびぬけた能力がある」ように思われドーピングなどは必要がないように思います、だからこそ逆説的に「組織的ドーピング(誰彼構わず適応する)」が疑われているのかもしれません
 ではドーピングはなぜいけないのでしょうか?
 「使用禁止薬物使用」や「規制違反」が根拠としてあげられるのですが、では何故禁止や規制があるのかということとなります
 旧東ドイツでの筋力増強剤などの過度な使用は、重篤な後遺症や女性の男性への転換など健康上の重大な被害を引き起こしました(全国的な救済組織が活動している)
 「健康被害」は本当に深刻な問題で、統計的に計上されていない死亡例は相当数に登ると指摘されています
 かつて、現在も女子400mの世界記録(1985年)保持者であるマリタ・コッホ選手が「普通の身体に戻すトレーニング」をやらざるを得なかったとする映像が放映されました(NHK:東独のスポーツ、1987年放映)
 また「スポーツの価値」として考えれば、ドーピングによって樹立された記録や栄光はあくまでも「偽物」であり選手本人の自己肯定感や人生観自体を崩壊させてしまうもので、スポーツの公正性やフェアプレイ精神を根本から覆すものにほかなりません
 一方、選手強化システムとして考えれば、経済的な問題から十分なトレーニング環境のサポートが得られない国の選手やチームがあるのも事実で、ドーピング以外の潤沢な競技サポートを受けることができているスポーツ大国の選手やチームとの「不平等感」「不公正感」は依然として残ります
 スポーツの成果を高めるためには「トレーニング」「食事」「休養」の組み合わせによる「スポーツライフ・マネジメント」の重要性が指摘されています(筑波大学名誉教授・鈴木正成先生)
 実はドーピングはこのプロセスに「一つの間違い」として侵入してくるもので、ビタミン剤などのサプリメント摂取との境界は不透明で、唯一「禁止薬物リスト」「規制違反」が根拠となり、現在では禁止薬物リストにないものでも「効果」を認識して使用するとドーピングと認定されます(続く)

「無意識のうちに対応して・・」は可能なのですか?

 トップクラスのテニス選手の試合を見ていると高速でラリーを続けていながらも何らかの「仕掛け」をしてポイントを取っているように見えます。練習では何種類かのハードで正確なラリーを延々と続けられるのですから、どこかでそれを崩すことがなければゲームは動きません。明確なのはネットインなどの「イレギュラーショット」ですが、これは適切な打点を判断してロビングや短いショットで返したりする「つなぎのショット」で対応しているようです。
 通常のラリーはフォアハンドもバックハンドも「ストレート」「ロングクロス」「ショートクロス」と「フォア逆クロス」を含めてほぼ7通りくらいの選択肢があるように思います。しかし対人状況下でゲームは進行しているのですから、相手のポジショニングと相手のショットに応じて瞬時に適切なストロークを「選択」しているようで、相手を追い込んで何本目かに「エースショット」でポイントを奪います。
 この際、「どのコースにどのショットを打つか」という「プランニング」には大脳基底核と前頭連合野が関与しており、フォアハンドのショートクロス動作を選択する「プログラミング」には動作を発現する大脳皮質運動野が、相手のショットに応じてショートクロスを補正するには小脳外側部がかかわっており、ショートクロスを打ち始めるタイミングの決定にも大脳基底核が関与していると考えられています。
 つまり前頭連合野・運動野・小脳・大脳基底核が連携して働いているようで、ナイスショットが決まった時には大脳基底核の近傍の大脳辺縁系の記憶に関わる海馬と情動に関わる扁桃体という部位も働いていて、ドーパミン作動性の「褒賞系」システムも連動します(まさに ”褒めてやらねば人は動かじ” )。
 このようにショットが成功している際には言語系は背景に隠れているのですが、ミスが続くと「あれ?」という定位=探求反射(おや-何だ反射)が発生して言語的修正が必要となります(当然現行動作系は中止する)。そして修正が成功すると再び言語系は背景に退きます。「無意識のうちに対応している」のは感覚系内での処理が可能な範囲のようなのです(シューティングゲームでしゃべりながら動作をしていては間に合わないように・・)。
 ところが状況が予想外に急変した時にはもう少し速い対応があるようです。ネットプレーに出たときに相手のショットが予想外に強かった時に「あっ、アウトする」とグリップを緩めたボレーで対応するようなケースです(本当に調節しているかどうかはわかりませんが)。これは、膝蓋腱反射などの「脊髄反射」よりももう少し長くて「意識的調整」よりは短い「長ループ反射(M2)」が背景にあるようで、感覚器のから信号が脊髄を上行して感覚野・運動野経由で下行して筋に戻ってくるようで、システムのリセット効果ではないかともいわれています(松波、1986)。
 人類の進化を考えても、私たちが現在のような豊かな言語系を獲得したのは「つい最近の出来事」なので、身体運動の実現は通常は「視覚情報」や「筋感覚情報」や「平衡感覚情報」などを手掛かりに「感覚依存性運動(運動前野が関与する)」で「無意識のうちに対応して」いるようなのです。

「巧みさ」を決めるものは?

 ロシアの生理学者・ベルンシュタインの「デクステリティ 巧みさとその発達」(工藤和俊訳、金子書房、2003年)は、1940年代に執筆されたものの旧ソ連内での「パブロフ理論」に従わない「機械論」として批判され(ユダヤ人であることも関連していた?)、1991年に至って初めて出版された名著です。特に「運動構築の水準」という概念は身体運動制御の自由度に関わる理論であるとともに、運動障害に対する理論的知見を示したものとして障がい者教育にかかわる人たちからは高く評価されてきました(ワイズマン:茂木俊彦訳、知恵遅れの子どもの運動機能と脳、ミネルヴァ出版、1978年)。一方1967年には「The coordination and regulation of movement」という著書が英訳・出版され、これはヨーロッパの運動の制御に関わる研究者の間では現在も極めて高く評価されています。
 ベルンシュタインは、進化の歴史(系統発生史)から見て大脳基底核の「淡蒼球」など運動制御上の脳の旧い部分から「脳の摩天楼」のように大脳皮質に至るまでA~Dの水準とその関与を例示しています。例えていえば、緊張のレベルAでは走姿勢の保持、筋関節のレベルBでは走動作、空間のレベルCでは陸上トラック上を走ること、行為のレベルDでは400mでベストタイムで走ること・・と解釈できます。つまりそれぞれの水準が系統発生的な起源を持ちそれが再構築されて「巧みさ(デクステリティ)」を実現しているという理論です。
 岐阜大学名誉教授の松波謙一先生は、熟練した運動における運動前野の働きが、動作補正に関わる小脳外側部との結合が強いことに加えて大脳基底核の歯状核や尾状核、被殻との連絡も強いことを指摘し、大脳-基底核-間脳・脳幹-脊髄とつながる「キュー(辮髪)」という概念を示唆されています(運動と脳、紀伊国屋書店、1986年)。また、ヒトとクジラの小脳を比較し、ヒトでは手指の運動の関わる小脳外側部が優位であるのに対してクジラでは体幹の運動に関わる小脳中間部外側が大きくなっていることをから進化のプロセスで求められた運動様式に対応して機能発達と再編が生じている可能性を示唆されました。
 このことは系統発生的に古い神経システムであっても系統発生的に新しいシステムと連携して円滑な運動遂行を可能としていることがうかがわれ、「運動構築の水準」は決して機械論的な決定論ではなくヒトの運動の「背景調整どうしの調和を作る段階」で運動スキルの形成を実現しているようなのです。
 「巧みさ」を実現するシステムは、大脳皮質運動野での運動経過を小脳や大脳基底核などがトレーニングの繰り返しの中で再編され、そのなかで緊急事態に対応する大脳基底核の「直感」システムが形成されているようなのです(続く)。


 

「直感」のメカニズムってあるのですか?

 先日NHK:ヒューマニエンス ”天才のひらめき” が放映され、将棋のプロ棋士の「直感」について理化学研究所の田中啓治先生がMRI(核磁気共鳴で活動状況を解析する方法)で分析した結果を紹介し、アマチュアと比較してプロ棋士では「大脳基底核」が働いているとのデータを示されました。同じく出演していたプロ棋士の田中寅彦9段は「アマチュアは ”算数” を解いている感じだが私たちは ”音楽・芸術” をやっている感じで上手くいくと ”楽しい” 」との大変印象的なコメントを残されています。
 ある局面で、プロ棋士が「いくつか浮かぶ打ち手」のうちから直感的に最善手を選ぶ際(1秒間)に働いているようで、アマチュアの方でも「詰将棋」で徹底的にトレーニングすると大脳基底核が働きだすとの田中啓治先生のデータも紹介されました。いくつかの打ち手が大脳皮質で企画されて大脳基底核にも送られ「咄嗟の(的確な?)判断」の際には大脳基底核が働いているようなのです。
 大脳基底核の機能は「ほとんどの回路を抑制して必要な回路のみを脱抑制する」とされていて、障がいを受けるとパーキンソン病やハッチンソン舞踏病が発症します。身体が本人の意志とかかわりなく勝手に震えたり動いたりするもので、ディレクターとしての大脳基底核が機能不全になりそれぞれの部位が勝手気ままに動こうとするようなものとされます。また、円盤投やハンマー投でターン中の絶妙のタイミングで投擲物をリリースすることやバッティングでの「今だ!」という絶妙のタイミングでスイングを開始することにもかかわっているようです。
 大脳基底核はいわば「旧い脳」で、オタマジャクシのようなかたちで、大脳皮質のように通常意識(言語)にのぼってくることははないのです。玉川大学の丹治順先生は、大脳基底核は、大脳皮質から多くの入力を受けていてそのほとんどを「止めて」いて、必要な時にある回路(最善の打ち手も?)のみをリリースしていると指摘します(脳と運動、共立出版、1999)。
 これは私たち人類の進化のプロセスを考えても、危機的状況下でのストレス反応に対応し、非常スイッチの扁桃体が記憶に関わる海馬の受容体にストレスホルモンを送って「適切な記憶」を形成することが知られており、この際大脳基底核は「戦うか逃げるか(Fight or Flight)」の咄嗟の行動選択に重要な役割を果たしているようなのです。
 ひるがえって考えると、スポーツの場面でも「咄嗟の動作選択」が行われているようにも思いますが、ではそのメカニズムは同じなのでしょうか?(続く)