「進化」というと何か生存に有利な一定の方向に適応しているように思われます。しかし「突然変異」と「自然淘汰」そして遺伝的進化の関係は大変複雑です。
1940年代に旧ソ連の植物学者のルイセンコが小麦の品種改良にかかわって「獲得された形質は遺伝する」という説(ミチューリン=ルイセンコ学説)を発表し、当時のソ連指導部にも支持され(おそらく後天的な努力によって人間は発達するのであって生まれつきの差は克服できるとの教育哲学に通じる?)、それまでの「獲得された形質は遺伝しない」という学説と対立する「二つの遺伝学論争」が世界的な規模で展開されました(佐藤七郎、遺伝学と進化学の諸問題:武谷三男編『自然科学概論 第2巻』、勁草書房、1960年)。国立遺伝学研究所の佐々木裕之先生は、旧ソ連での指導部の行き過ぎた反対派の粛清が逆に旧ソ連の遺伝学の発展を著しく阻害したことを指摘し、現在の遺伝学研究では獲得された形質の遺伝は、遺伝子スイッチとしてのメチル化やヒストン置換というエピジェネティクス(後成遺伝学)が担っていることを指摘します(佐々木裕之、エピジェネティクス入門、岩波書店、2005年)。
人類の進化のプロセスを考えても、アフリカに20種以上存在した我々の祖先が、食性や狩猟採集行動と集団数との関係(食料量との関係)で生存と消滅を繰り返し、現世人類(ホモ・サピエンス)のみが生き残っていることはよく知られています。様々な遺伝的形質のうち生存に有利な個体が生き残るという「淘汰圧」があったことは事実ですがいわゆる ”神の意志” のような「定方進化」ではなかったようで ”たまたま” 生き残ったようなのです。また、私たちホモ・サピエンスのご先祖様が10万年前以降 ”出アフリカ” を果たして世界拡散をする(いわゆるグレートジャーニー)のですが、中東でネアンデルタール人と交雑しアジアでデニソワ人(先行してアフリカを出たホモ・エレクトスの子孫と考えられている)と交雑していることが遺伝子解析から解明されており、それぞれから生存に有利な遺伝子を受け継いで(2~6%)現在に至っているようなのです(NHKスペシャル「人類誕生」制作班、大逆転!奇跡の人類史、NHK出版、2018年)。
そして進化と適応との関係をエピジェネティクスとして考えると、ハーバード大学のリーバーマン先生が指摘するように長期間にわたって獲得された人類形質との ”ミスマッチ” による ”ディスエボリューション(進化の否定)” を世代を超えて引き継ぐ危険性も否定はできません。ケント大学のクリガン=リード先生はこの問題を「人新世(アントロポセン)」の「サピエンス異変(Primate Change)」と指摘しています(V.クリガン―リード:水谷・鍛原役、サピエンス異変、飛鳥新社、2018年)。
2022年9月に行われた第77回日本体力医学会で「運動が多臓器に誘導する多彩なエピジェネティクス調整機構」というシンポジウムがありました。エピジェネティクスというのはいわゆる「遺伝子スイッチ」として遺伝子の発現を調整するもので「後成遺伝学」という新しい研究分野です。1600組の遺伝子的にほぼ等しい「一卵性双生児」の一人がガンになる原因は遺伝子由来は8%ほどで、他は遺伝子に影響を与える何らかの要因の「引き金がひかれたこと」によること、スウェーデンでのメタボリックシンドロームが原因とみられる死亡例が高かった村では「祖父の代での大豊作」が遺伝子スイッチをオンにして平均して15年ほど寿命が短かったという報告もあります(NHKスペシャル「人体」取材班、遺伝子、医学書院、2020年)。
このエピジェネティクスを引き起こすメカニズムは、「メチル化」といって遺伝子を ”くちゃくちゃ” にして転写を進めたり阻害したりするものと、4個の「ヒストン」というたんぱく質に2重のDNAが巻き付いた(八畳体)「クロマチン」というビーズ状の構造が転写可能と転写抑制とを装飾していると考えられています(佐々木裕之、エピジェネティクス入門、岩波書店、2005年)。
そして、どうやらこのメカニズムが ”過去の経験” を反映しているようで、体力医学会のシンポジウムでは、高校時代の運動経験がその後の再トレーニングにおいても機能の改善に影響を与えているようで、クロマチンの4つのたんぱく(H2A/H2B/H3/H4)が過去の運動経験時に「入れ替わって再合成(ヒストン置換)」されたもの(運動誘発性の装飾)が長期にわたって転写されている(順天堂大学・吉岡松本利典先生/松本大学・河野史倫先生)ようなのです。これは「トレーニングの中断と再開」や「怪我からのリハビリテーション」などにもかかわるメカニズムのようで、さらに運動実施による脳由来神経成長因子(BDNF)の発現により、脳の運動野や認知症に関わる海馬の不安関連遺伝子の変化にも影響を与え(北海道大学・前島洋先生)ており、更に妊娠期の運動が子の肥満予防効果を規定するとの報告もありました(東北大学・楠山譲三先生)。
つまり「じじ・ばばの経験は孫にも伝わっている」?(続く)
身体運動と音楽との関係は、おそらく数万年以上前のホモ・サピエンスの人類史にまでさかのぼれるようです。オックスフォード大学のダンバー博士は、ヨーロッパの洞窟遺跡での原始的な宗教的祭祀で、壁画の前でシャーマンが踊り、骨のフルートのような楽器を奏でて参加者が踊りを始めるというシナリオを提起しています。ホモ・サピエンスレベルではこのような「笛」を使っていたことは指摘されていて、同時代にヨーロッパで共生していたネアンデルタール人では原始的な宗教行為は存在するものの楽器のような「シンボル的な道具(貝殻のペンダントは残っていたようです)」は発見されていないようです。(NHKスペシャル「人類誕生」制作班、大逆転!奇跡の人類史、NHK出版、2018年)
ホモ・サピエンスでの大人数集団レベルでの社会共同性は、ネアンデルタール人の家族レベルの集団性を越えて石器の進化や道具の革新をもたらしたことはよく知られています。「大人数レベルでの集団性」を維持するためには原始的な宗教性が必要であり、かつシンボルの異なる宗教的集団間での「争い」や「調停」と「和解」をもたらすためには「祭祀」が必要であったようです。1万2千年前の有名なトルコのギュベックリ・テぺ遺跡では、シンボルの異なる集団がそれぞれの象徴の場を作るとともに、どうやら御馳走のパンやビールなどを飲食しながら交流(調停と和解)をしていたことが指摘されています。(NHKスペシャル取材班、ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか、角川書店、2012年)
祭祀に関わり「踊りの起源」と解釈される身体運動様式の定義はなかなか難しく、多くの解釈が存在するようです。総合地球環境科学研究所の前京都大学総長・山極壽一先生(ゴリラ博士として有名)は、人類の進化のプロセスで身体の同調・共鳴を通じて心を一つにすることがダンスや音楽によって高められ、一体となって危険や恐怖を乗り越えていた可能性を指摘します。また、東京大学の岡ノ谷一夫先生は、人類の直立二足歩行や走行といった不安定な自由度が踊りという行為を可能にした(逆説的に?)のではないかとし、社会共同体を支えた ”まねっこ” の「ミラーニューロン」が関与している可能性を指摘します。さらにサバンナでの集団での行為(踊り)によって危険動物を遠ざけ安全を確保していたのではないか、そして言葉の発生にも関与していたのではないかと推論しています。(NHK、ヒューマニエンス:ダンス、2022年放映)
つまり ”歌舞音曲のたぐい” は人類の進化を支える大変に重要な要因であったようで、 ”思わず踊りだしてしまう” ことは決して不謹慎なことではないようなのです。
ランニングやウォーミングアップを行いながらヘッドホンから音楽を聴いているシーンをよく見かけますし、それぞれに ”テーマ曲” もあるようです。フィギュアスケートでは、演技と音楽とのハーモニーが大変印象的で、演技後半の疲労感のある局面でのダイナミックな演技とマッチした曲想は観客をも巻き込んでしまいます。
ところが音楽とパフォーマンスとの関係についてのある程度客観的な「効用」を探るということになると途端に困難なテーマとなります。
リズミカルに反復される運動実施の場合には、電子メトロノームなどを用いてリズムやテンポといった時間的要素をサポートしてパフォーマンスとの関係を検討することができます。ところが「音楽」として、メロディーや歌詞(リリック)が加わってくると個人やチームの体験や感情という側面が加わってくるためいわゆる「情動反応」が関与してきます。
「情動反応」は、「大脳辺縁系」が関与しており、意欲に関わる「帯状回皮質」やストレス反応での非常事態スイッチ「扁桃体」、記憶に関与する「海馬」などから構成されており、「緊急事態」では扁桃体が視床下部に働きかけて副腎皮質からストレスホルモンを分泌して血糖値や血圧・心拍数を上昇させ、「幸福感」を感じているときは帯状回が働いて扁桃体の活動を抑制していると考えられています。(工藤佳久、脳神経科学~やっぱり脳はとてもすごいのだ、羊土社、2019年)
疲労感や倦怠感を感じているときに「行進曲」を聞くと交感神経系が活性化して、肝臓からのグリコーゲン(糖)放出を促しエネルギー供給系を活性化しパフォーマンスを高めることも昔からよく指摘されています。数多く存在する「行進曲」や「戦いの踊り」は、身体活動を通しての「闘う行為」への一体感を醸成して攻撃性に関わる血中テストステロン値を高めると考えられています(武器を所持するとテストステロン値が上昇するとの研究報告もある)。
ところが人間のテストステロンは、単に攻撃性に関係しているだけではなく ”他人のために一肌脱ぐ” といった ”気前の良さ” や ”不公正さへの懲罰” にも関連して極めて複雑な振る舞いをしていることが報告されています。(NHKBS1:テストステロンの真実、2019年放映)
ラグビー・ニュージーランドのオールブラックスの有名な ”ハカ” は、自チームと観客を奮い立たせるだけではなく相手への「敬意」や「感謝」を含むものと解釈されていることから多くのファンに受け入れられているようです。伝統ある音楽や踊りといった要素であっても、パフォーマンスとどう関わりどんな「効用」を持つのかは大変に複雑なように思いますす。おそらく現在のウクライナ代表のスポーツ選手たちは、母国の歌を聴くことによって自分のプレイを母国の人々への励ましとして示したいという高い意識があり、その意味で極めて高いパフォーマンスを実現しているのではないかと思うのです。(つづく)